作業に集中するために必要な注意の分散。
ひとり作業のときに求めたくなる同時間感。
それがテレビ=視覚だと持ってかれる。
というわけで結論はラジオ!!
僕が集めているものは、誰かの気づきの断片にすぎない。
でも先立った言葉や表現があまりに自然にすっと入ってくるとき、
身震いするほどに喜ばしいのだ。
その未知で既知の発見を、相応しい誰かに伝えたいのだ。
所詮、浅く浅はかで、儚ない薀蓄である。
3倍強の大袈裟もあるかもしれない。
でもあの人と、どうしても分かち合いたいのだ。
さて僕は、やがて何をするのだろう。
文を綴るのだろうか。
詩を書くのだろうか。
言葉を描くのだろうか。
絵を描いたり、歌い始めるかもしれない。
- ほつと恵まれた休日に
新しいメガネもかばんもパソコンも、自分のモチベーションのためだった。
いつもそうやって、外にきっかけを探していた。
それはホントでもあるし、閉塞感を裏返した言い訳でもある。
住む場所が変わる。働く場所も持ち歩く荷物も変わる。
関係性もまた、刻々と変わっていく強烈な実感。
自分はどう変わらなければならないのだろうか。
ホントの強さのために、いま喜多見から代々木へ。
人間の、ほかのどの生き物とも違う儚い営みは、記憶を残そうということかもしれない。
強烈に心を打つ美しい何かに呼応して、どうしようもなく何かを残そうということ。
例えば自然。その美を再現すべく人が表現しようとしたそれは、
グラフィカルにもアンビエントにも、宇宙的な表情を奇跡的に帯びることもあるのだ。
青山二郎の眼に残ったさまざまな名品が、何だか宇宙に見えた。大地に見えた。空に見えた。
だれかのどこかの季節が、景色が、そこに詰まっていた。
魂があった。それは一目瞭然であった。
人生最初の「モノとの果し合い」は、モノの圧勝ながらも、
然るときに追いつくべき大いなる到達点が、遠くに見えたのだった。
あらゆるクリエーションは、感動してもらうためにある。
去年の七夕は僕たちが入籍した日。
秋と冬に誕生日を迎える僕たちにとって、うれしい夏の記念日だ。
そして今年は、大切な友人が同じ日に結婚した。
つい先日、長い旅が終わって、ほっとしながらのおもてなしパーティ。
まさにその夜に「ふつうの流れでそう思った」と二人らしく言ってくれるのなら、
今回ばかりはちょっと、一応きっかけになったんだぜ!と
胸を張って誇りに思ってみたい。
小さい心の動きは人を動かす。その弾みに結婚までしてしまうほどに。
こんなにも嬉しい知らせはひたすら輝かしく、僕たちもこらえきれないほど感動する。
感動は連鎖するのだ。
だから僕たちはひたすら、クリエーションを続けていく。
大切なことを教えてくれてありがとう。
そして末永くお幸せに!
20代も中ごろになって、起こる出来事は日に日に大きくなっていった。いま一緒に仕事をしている仲間との出会いも、これからずっと一緒に過ごすことになる人との出会いも、この頃の話だ。家に帰れば誰かがリビングにいて、今日気づいたこと、最近の悩み、いろんなことを語り明かす。そして布団の中で顧みるアップデート。笑いも涙も、誇りも恥ずかしささえも、全部あの家に詰まっていた。
朝も夜も、不思議とシャワーのタイミングがかぶらない。キッチンと冷蔵庫は基本的に彼女たちのものだ。荷物持ちの僕は、残りの部屋をオフィスにしたり納戸を我が物顔で使っていた。日当たりの悪い僕の部屋は、外に出かけるためには都合がよかった。よく出歩いた。フリーになる前は、夜しか自由時間はなかったから、よく呑み歩いた。恵比寿駅前食堂に週4通ったときもあった。そして部屋に帰れば、バタンキュとすぐ眠くなった。
忙しい日々、余所行きなテンションの高い日々にあって、心から優しい彼女たちはお茶やビールをそっと出してくれた。そうこうしてそれぞれ大切なパートナーを見つけた。みんなのものがごちゃ混ぜに置かれたリビングで、6人の夜も珍しくなくなった。
最後の日。みんなの誕生日パーティもささやかな結婚パーティも、いろんな人が行き交った恵比寿ハウスは、内見したあの日のようにがらんどう。ちょっとだけ成長したみんなで写真を撮って、さらりと「またね」でバイバイ。池尻ハウスで、そしてまたどこかで、こんな感じでまた自然と集まっていくんだろう。
さよなら恵比寿ハウス。
今は、日当たりのよい家で。
環境を整える。
そう、いきいきといきていた。
11月のあらゆるバッドラックが、自分のもろさをこれでもかと際立てながら、
それでもこの迷いがちな脳は、張り切ってアジャストしていくのがわかる。
さぁ、来るべき新年に備えて。
デイリーな夜の会話。
ひとつは、自分の未来のシミュレーション。
もうひとつは、誰かのいつかのバリエーション。
想像力には、ふたつの種類があることに今さらながら気づいた。
Thanks, Richard
霧雨の中、影を頼りにしたハイド&シーク。
3連のクリスタルに無垢な光が当たったとき、
動力や色相や形態のパラダイムを諦めさせる
普遍的な自然そのままのデザインが浮かび上がった。
ぼくはそのとき、言葉の、デザインの、自信をなくした。
ぼくはモチーフをみていたのではなかった。ただイメージをみていた。
それは転じて、可能であることを意味していた。
ふと右からの風が吹いて、オレンジの中でぼくたちは色を忘れた。
おびただしい光の中でしか生きられないわれわれが、
グレースケールに縛られた、どうしようもない
囚われの不安はどこからでていたのだろう?
色めいた興奮はなんだったのだろう?
いろいろな視界が、ビジョンが、イマジネールが、デジャヴやクリシェが、
疑われる
春の新しい光の中で、果てしなく刻まれた影の光