→「居ながらにして情報が手に入る」のではなく「どこにいても世界中の情報が手に入る」状況としての今、人間の営みとして「移動」こそが本質であると著者は言う。そうして場所場所に散りばめられた所縁としての「移動の記憶」が、呼ばれる感覚や啓示のような想像力を引き起こし、その先の再定住の地へと導くのだろう。
→「人類の生息圏の規模で考える倫理」としてのエコエティカは、自然への対物倫理という概念をもって徳目の創造を試みる。そこに「21世紀のロジック」=これからの当たり前につながる価値観の萌芽がありそうだ。歴史上はじめてグローバルなホーム感覚という可能性が開かれた今、デモクラティズムからデモクラシーへ、あるいは悪の衝動から善の衝動へ、「巧みな転換」=エウトラペリアこそ、時代の気分なのだろう。
→ 地球感覚かつバイオロジカルに21世紀のロジックを組み直す中で、「新しい当たり前」の根底をなすだろうエネルギーウェブ構想。ちょうどオープンかつインタラクティブな“ウェブ”的発想がデザインの現場で必要とされる今、その発想をアナロジーとしてエネルギーへ展開することが重要になるだろう。
→セレンディピティかインスピレーションか、そもそもにして人間は触発される動物である。突き上げられる感動、考えさせる思考を育むものこそ、<いい>ものであり、エチカルであってほしい。
※ただし、ドゥルーズがスピノザの善悪の捉え方の独自性として考えているのは、変動する活動力能を全体化はできず、「<悪>も<善>も意味を持たない」という、中世当時のテーゼに鋭くヒビを入れたこと。僕たちの身体を受け入れる器自体は、あくまで相対的なのだ。
→いつのまにか自分の中で、ひところの高揚から違和感に転じていたノマディズム。現代の再定住とはローカルとグローバル、リアルとバーチャル両方のコミュニティ/場へのコミットメントであり、ノマドよりもグローバルなホーム感覚が、必要とされているのかもしれない。
→grafの服部さんが最近感動したという、柳宗悦と民芸運動をやっていた佐賀の木工職人の言葉から。温かみはきっと、ひとりよがりじゃない、相手のよさを引き出して共有しようというリスペクト溢れる態度から生まれてくる。「思い出の引き出し」をそっと開けるようなものを目指すというgrafのインタビューは、いつ読んでも示唆に富んでいます。
→世田谷美術館でも『青山二郎の眼』が開催中。いまなぜ青山二郎なのかといえば、「天才的な審美眼」を持ち、「フツウの常識人」でありながら、「一兎を追う方が容易であるから二兎を追え」といい、「精神は認めたが、『精神的』なものは認めず」、「意味も、精神も、すべて形に現れる、現れなければそんなものは空な言葉にすぎない」と信じていたもろもろすべての態度が、アンビエントな時代の気分にピッタリだからだろう。
→人間はあらゆるアンビエントな情報を五感で感じ、決断して行動を重ねていく。「何を見つけるかによって、何をするかが左右される」くらい、情報に基づく意思決定がサバイバル条件になってくるとき、天候、気の流れ、ひょんなやりとり、もろもろに何かを察するゆとりをもつことも大切なのだろう。
→まだ見ぬインタラクションは人々を熱狂させ、いつかデザインパターンとして“なじみ”のものとなっていく。フロンティアとしての未発の「感じる領域」は、テクノロジーとデザインをつなぐ明確な目標として、地平を開いているのだろう。
やがて 紙に 言葉をおき、
それを切り、 刈りこみ、 設計し、 形をととのえる。
彼女は庭師、 だが土地も、
そこにどんな種子が 根を下ろすかも さだかではない。
花々と、雑草と、 1本のやせた木を 育ててきた。
いま彼女は さまざまな色のパンジーを 夢見る。
1日の初めての光に 彼女は見る 小さな双葉が 芽吹いたのを。
兎がそれを食べたとしても 怒らない。 もっと生えてくると 知っているから、
作家は いつも学び、みつめ、 耳をかたむけるものだから。
いろんな思いが 心にひろがる、
どんな気持ちの波立ちも 気分の変化ものりこえて、
彼女はそれを大切にしてゆく。
彼女はたくさんの作家の 一人にすぎない、
一人机にむかい、 自分の本が いつか
人々の心の種子となって 蒔かれることを願っている。
→旅から帰って、立ち寄った気流舎でサワがふと買っていたゴフスタインの古絵本(翻訳:谷川俊太郎)の言葉が心打つ。書く存在としての喜びをまばゆく感じながら、紙に言葉をおいてゆこう。
→ イメージやビジュアルは近似を感じる感受性を刺激して、人間を繋ぐことができる。「過去のこと、遠いもの、異なるもの」を理解可能にするアートフルなアナロジーとネットワーク的な知は、人々をワクワクさせながら、まだ見ぬデザインをプロジェクト(投企)していくのだろう。
→交わる感性、想像の及ばないリアクション、なんて人生はJOY!
→MASSIVE CHANGEや禅の理念にも通じそうな重要な提言。「技術」の可能性は、従属する「サブジェクト」から、私たちを能動的な「プロジェクト」へと導く。(この場合、前後の文脈の「技術」という定義を精読する必要があります)人間相互の関係そのものが具象的であり、結び目の中におかれた客体と主体がすべて抽象的なものと受け入れたとき、直感的な「自己のデザイン」を実現する道が見えてくるのだろう。
→見知らぬ誰かが目の前にいて、たとえ何も共有していなくても、顔を背けられないほどの確かなる共鳴を感じることがある。それに素直に反応することで、「服従としての思考」を超えた、普遍的で真にオーガニックなコミュニケーションに、到達できるのだろう。
→誰でも生産者になれるアップローディング、グローバルなサプライチェーン、特化した事業へのインソーシング、そして個人が主体的に情報にアクセスできるインフォーミング。見えるところ、見えないところで世界はますますフラットになる今、まだ見ぬ世界を描くためには、仮設を掛け合わせて見定めていく、バランスの取れた想像力がカギとなるのだろう。
→ブルース・マウがデザインの不可視性に言及するとき、MASSIVE CHANGEにも登場するレッシグは、周到に忍びこんだ法、特に著作権をめぐる視点から「自由な」文化を投企する。文化をフリーに交換する新しい枠組みに向けて、いま常識の大規模な整理が問われているのだろう。
→<帝国>的なシステムにすら寄与する「不可視のデザイン」という戦略。そんな今だからこそ、デザインをする主体は裂け目を見つけることができる。現状批判も大切ですが、ただペシミズムにとどまるのではなく、着実でワクワクするな事例を見ながら、ポジティブな未来地図を描いていたいです。
→「最高の喜び」の可能性を本気になって考えたスピノザ。「自分で最も大事で最も欲することのみをよしとし、あれこれ非難する前に直接よいことに赴く」という自己肯定と努力の視点で「欲望」を捉えなおすとき、目的と出会うための知性の本質として、「欲望」の意味がラディカルに変わっていくのだろう。
→なんとなくの瞬間的で感覚的な判断に、今までの経験やまだ知らない志向性が圧縮されている。そんな「適応性無意識」に自覚的であることが、知識社会/情報過多の時代で生き抜くための、新たに必要なリテラシーなのだろう。
→あたりまえのことに驚くときの解像度は、クリシェやステレオタイプを容易に乗り越え、本質を直感的に捉えるために作用する。その透明なまなざしが心動く感動を生み出し、ディメンション・シフトのポジティブな可能性を揚々と切り開くのだろう。





