→インターネットという新メディアの最大のインパクトが情報の主権を転化させたとき、ネグリのいう絶対的民主主義の地平は、真に創発するためのWEB2.0の上に開かれている。
→大きな変動のために知覚しがたいほどの些細な変化に耳をすませること。そんな中にあって自分自身も何かを漏出しているというリアリティを、主体的に感じることが大切なのだろう。
→自分がリセットされてなくなるとき、有難い気持ちが生まれてくる。なくなったところにゆとりも出る。能動的で生き生きとあるために、ものごとを肯定し直観的に感受すること。そうして謙遜/忍辱という、晴れ晴れとした受動性が生まれてくるのだろう。
→創造のために、一度心は傷つかなくてはならない。自分が参ってしまうほどの素晴らしい作品にふれることも創造ならば、むしろ凹みを歓迎しよう。創造のために、いつもフレッシュであるために。
→この本の冒頭、「根源的な創造の場」として「不思議の場所」があるとき、万物照応として肯定的に、一が多であり多が一であるような「カミと出会う場所」を感じることで、生きることが生き生きと詩的になるのだろう。
→ステキな文章をつくり出すには、言葉を選びとる自身の精神の充実がなくてはならない。そのためには、よく推敲された結実としての文章を目の前にして、著者の時々のテンションを感じとる気構えが大切なのだろう。
→伊勢神宮を謳った西行の一句から紐解くパブリックスペース(と芸術)。あらゆるテリトリーを越境するノマド的な共時性が前提となったときに、誰のものでもない感情を共有するための場所こそ、真に<共>的なスペースなのだろう。
「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
→自分が他者に語られているときに自分の居場所が生まれ、他者を見ながら自己を相対化することで、社会的な私ができあがっていく。「話す存在としての人間の辛さ」を認識してはじめて、「他者の欲望」が新鮮な気づきとなってふつふつと浮かび上がるのだろう。
→「人間の心」という陸地が無意識を抑圧して沈みかけている今、もう一度泥くさいところから心をこねなおすというアースダイバー的パースペクティブ。それは人間らしく心地よい余地を取り戻すための、古くて新しいコミュニケーションなのだろう。
→自分一個の内世界に積み重ねられたもの。スティーブ・ジョブスが「内なる声は知っている」というとき、自らの目をつぶり、光の下で見えるものだけじゃなく、闇の中で確かに感じるその中に、知りたい「それ」は隠されることなくありありと、あり続けるのだろう。
→現代の<ルール>に合わせてフィクションをつくるのでもいいけど、その積み重ねで確実に前例のないものにぶち当たった奇跡的瞬間に、物怖じせずに突き進めることこそイノベーションだ。そのために、「あっ、今キセキかも」と感じるひたむきな感性が、問われてくるのだろう。
→大欲、大我とすべてを肯定する密教の立場とも何となくリンクする、世界を肯定する力を持つ創造的主体としての「マルチチュード」。曖昧だ何だといろいろ突っ込まれてますが、web2.0の文脈で少しずつリアルになる「クリエイティブクラス」の存在こそ、その担い手なのかもしれません。
→「世界は変えられることを望んでいる」というバランス感覚は、翻って世界を構成する僕たちひとりひとりに関わってくる。「恐怖を表明してばかりいるな」という1947年のバタイユの「強烈な不意打ち」は、2005年を迎えた僕たちに何を投げかける?
→内なる声に耳を傾けて、自分の無限の可能性から知らない自分を引き出してゆくことが成長なのだろう。「Stay hungry, stay foolish.」であるために、自分の感受性くらい自分で守れ、ばかものよ。
→「もろもろの分野を貫いた」コラボレーションによるデザイン。未来へのデザイナーの果たすべきコミットは、小さなフレームを飛び越えることから始まるのだろう。
→50年のときを経て、見田宗介氏、中沢新一氏らが21世紀のロジックとして期待する、供犠でも戦争でもない新しい時代のための蕩尽とは。この“常識”においては忌々しき「呪われた部分」としての非生産的活動は、普遍経済において何よりも人間らしく輝き出すはずだ。それがもしかしたら、21世紀のアートの役割なのかもしれない。
→欧米の人には全然通じないというアジア的多主語の感性。500年来支配したオレ、オレ主張型西洋思想でひとつの臨界に達したとき、バランスをとるための東洋思想の根底は、森羅万象がむせかえる生態系への自然とエコロジカルな感覚なのかもしれません。その後に続く文章、「一たす一が二にならなくて、五になったりゼロになったりする。」たしてゼロになるって、いいなぁ。
→美を発見するために美を隠し、「自分を完膚なきまでに笑う高尚な奥義」としての茶道。それは、自分の役割を全うするために全体を知ろうとする東洋の理想であり、21世紀にいよいよ近代合理主義を脱するための、崇高なコンセプトなのだろう。
→世紀が変わってラディカルに転回する「自由」の意味。自分が誰かと違うことが当たり前なのだから、むしろ誰かと同じものを欲していることを尊ぶべきなのかも。「個性」の呪縛を超え、
晴れてありのままの自分へ。
→物質的必要に先立つ生への歓び。そんな「単純なエクスタシー」を感じる人間らしさこそ、「世界を変える」ための、オプティミスティックなよりどころなのかも。





