2008年02月26日
エネルギー・ウェブの時代 - ジェレミー・リフキン
分散型電源の登場と、局所的な、そしてゆくゆくは世界的なエネルギー・ウェブの構築は、世界をつなぐコミュニケーション・ウェブ誕生の延長線上にある、当然の帰結と言える。双方向コミュニケーションと双方向エネルギー共有は、互いに補い合い、利用しあう関係にある。このふたつの技術革命が融けあう過程で、新しい経済と社会に向けた基盤ができる。(…)そのシステムは、史上初めて、分散的な性質と真に民主的な形態をもつものなのだ。
→ 地球感覚かつバイオロジカルに21世紀のロジックを組み直す中で、「新しい当たり前」の根底をなすだろうエネルギーウェブ構想。ちょうどオープンかつインタラクティブな“ウェブ”的発想がデザインの現場で必要とされる今、その発想をアナロジーとしてエネルギーへ展開することが重要になるだろう。
2007年12月07日
いいものとは何か - スピノザ
わたしたちの活動力能を増大させるもの、促進するものがいいもの、それを減少させるもの、阻害するものがわるいものになる。(…)私たちの変様能力(触発に応じる力)をより多くのものごとへとひらくものであるから、「身体がいっそう多くの仕方で触発され変様することができるよう仕向けるもの」、あるいはその身体特有の運動と静止の構成関係を保持させるものが、いいものということになる。
→セレンディピティかインスピレーションか、そもそもにして人間は
触発される動物である。
突き上げられる感動、考えさせる思考を育むものこそ、<いい>ものであり、エチカルであってほしい。
※ただし、ドゥルーズがスピノザの善悪の捉え方の独自性として考えているのは、変動する活動力能を全体化はできず、「<悪>も<善>も意味を持たない」という、中世当時のテーゼに鋭くヒビを入れたこと。僕たちの身体を受け入れる器自体は、あくまで相対的なのだ。
2007年11月14日
再定住 - ゲーリー・スナイダー
人々が再定住することーすなわち、将来の長い期間にわたって、自分の住んでいる場所にコミットしているかのように生活し考えることーを要求されている。これはある程度原始的なライフスタイルに戻ることであるとか、あるいはユートピア的な地方主義に回帰することを意味するのではない。それは、簡単に言えば、コミュニティに参画し、地域で生活するだけでなく、地球社会から学びそれに貢献することも可能になるような、サステナブルで洗練された経済的実践のありようを探求することを意味する。『惑星の未来を想像する者たちへ』ゲーリー・スナイダー、p310、山と渓谷社
→いつのまにか自分の中で、ひところの高揚から違和感に転じていたノマディズム。現代の再定住とはローカルとグローバル、リアルとバーチャル両方のコミュニティ/場へのコミットメントであり、ノマドよりもグローバルなホーム感覚が、必要とされているのかもしれない。
2007年08月20日
削ぎ落としたらいけないものは人の温かさ
『削ぎ落とししてシンプルにしていく』というモダンデザインの心得はわかるけど、削ぎ落としていたらいけないものまで削ぎ落としていないか、その削ぎ落としたらいけないものは人の温かみじゃないか。
WEB STRATEGY vol.11 p.61
→
grafの服部さんが最近感動したという、柳宗悦と民芸運動をやっていた佐賀の木工職人の言葉から。温かみはきっと、ひとりよがりじゃない、相手のよさを引き出して共有しようというリスペクト溢れる態度から生まれてくる。「思い出の引き出し」をそっと開けるようなものを目指すというgrafのインタビューは、いつ読んでも示唆に富んでいます。
2007年07月26日
本物の中の本物を発掘する - 青山二郎
ひと口に本物といっても当てにはならない。本物の中にもほんとうの本物と贋の本物、- 見かけだけのもの、との区別があるからだ。(…)銘柄にとらわれず、外観に惑わされず、本物の中の本物を発掘するのが青山二郎が志したことである。『創造』といったのはその意味で、一日悟得すれば万事に通ずる眼を持つことであったから、命を賭けることも辞さなかったに違いない。
→世田谷美術館でも『
青山二郎の眼』が開催中。いまなぜ青山二郎なのかといえば、「天才的な審美眼」を持ち、「フツウの常識人」でありながら、「一兎を追う方が容易であるから二兎を追え」といい、「精神は認めたが、『精神的』なものは認めず」、「意味も、精神も、すべて形に現れる、現れなければそんなものは空な言葉にすぎない」と信じていたもろもろすべての態度が、
アンビエントな時代の気分にピッタリだからだろう。
2007年07月23日
アンビエント・ファインダビリティ - ピーター・モービル
無意識のうちに絶え間なく感覚を通過していくすべての情報が、人間の記憶や信念、予測、決断、行動を形づくる。人間には生まれつき本能が備わっているが、直感に関しては、一生かけて学習し続けることになる。情報は文字通り、大きな違いを生み出すデータなのである。そして実際に、人間の精神を変化させる。
→人間はあらゆるアンビエントな情報を五感で感じ、決断して行動を重ねていく。「何を見つけるかによって、何をするかが左右される」くらい、情報に基づく意思決定がサバイバル条件になってくるとき、天候、気の流れ、ひょんなやりとり、もろもろに何かを察する
ゆとりをもつことも大切なのだろう。
2007年07月20日
未発見のフロンティア - 原研哉
私たちの感覚の中には、いまだに発見されていない大陸のようなものが眠っているのではないかと私は思います。未発見のフロンティアが私たちの感覚の世界地図の中にあって、そこを発見していく作業がまだ残っているのではないか。未発の「感じる領域」を発掘するように探し当ててゆく。(…)テクノロジーはそういう感覚の上にも開花できるのではないか。小さな感覚上の発見が、人の生活に巨大な覚醒をもたらすのです。
→まだ見ぬインタラクションは人々を熱狂させ、いつかデザインパターンとして“なじみ”のものとなっていく。フロンティアとしての未発の「感じる領域」は、テクノロジーとデザインをつなぐ明確な目標として、地平を開いているのだろう。
2007年07月19日
A Writer - M.B.ゴフスタイン
作家は ソファに座って 考えをあたためている、
やがて 紙に 言葉をおき、
それを切り、 刈りこみ、 設計し、 形をととのえる。
彼女は庭師、 だが土地も、
そこにどんな種子が 根を下ろすかも さだかではない。
花々と、雑草と、 1本のやせた木を 育ててきた。
いま彼女は さまざまな色のパンジーを 夢見る。
1日の初めての光に 彼女は見る 小さな双葉が 芽吹いたのを。
兎がそれを食べたとしても 怒らない。 もっと生えてくると 知っているから、
作家は いつも学び、みつめ、 耳をかたむけるものだから。
いろんな思いが 心にひろがる、
どんな気持ちの波立ちも 気分の変化ものりこえて、
彼女はそれを大切にしてゆく。
彼女はたくさんの作家の 一人にすぎない、
一人机にむかい、 自分の本が いつか
人々の心の種子となって 蒔かれることを願っている。
『
作家』M.B. ゴフスタイン、G.C.Press
→旅から帰って、立ち寄った
気流舎でサワがふと買っていたゴフスタインの古絵本(翻訳:谷川俊太郎)の言葉が心打つ。書く存在としての喜びをまばゆく感じながら、紙に言葉をおいてゆこう。
2007年02月14日
ヴィジュアル・アナロジー - バーバラ・マリア スタフォード
イメージが我々に差し出すのは翻訳不能、それ以上還元不能のパターンである。これらは人々に、場所に、事物に我々が現在進行形で続けている順応を知覚が細かく調整するところを、多数に記録する。このヒトの連繋能力は個別たると同時にグローバル、特殊たると同時に一般的なものであり、差異と協和の形象(フィギュア)をこもごもうみだすことができる。
→ イメージやビジュアルは近似を感じる感受性を刺激して、人間を繋ぐことができる。「過去のこと、遠いもの、異なるもの」を理解可能にするアートフルなアナロジーとネットワーク的な知は、人々をワクワクさせながら、まだ見ぬデザインを
プロジェクト(投企)していくのだろう。
2007年01月18日
人生はJOYだ - よしもとばなな
人生はJOYだ。そう思うことだけが反逆なのだと思う。
→交わる感性、想像の及ばないリアクション、なんて人生はJOY!
2006年12月07日
サブジェクトからプロジェクトへ - ヴィレム・フルッサー
かつて客体とみなされたものはすべて、投企に他ならないこと、つまり技術から生まれた結果に他ならないことが、見えてくる。いまや、技術とは、可能なものからあるべきものを選り出すことなのだ。そうなると、技術行動の最終目標は、可能性の場から、あたかも客体に見える当為(モデル)を取り出すことに置かれる。技術が生み出すこうした擬似客体は、もはや主体によって否認される対象物ではなく、あるデザインから投企された投企物なのだ。
→
MASSIVE CHANGEや
禅の理念にも通じそうな重要な提言。「技術」の可能性は、従属する「サブジェクト」から、私たちを能動的な「プロジェクト」へと導く。(この場合、前後の文脈の「技術」という定義を精読する必要があります)人間相互の関係そのものが具象的であり、結び目の中におかれた客体と主体がすべて抽象的なものと受け入れたとき、直感的な「自己のデザイン」を実現する道が見えてくるのだろう。
2006年08月18日
生きるということは共鳴することである - アルフォンソ・リンギス
生きるということは、物が出す振動に共鳴することなのである。物質にとって、存在するということは、共鳴することである。(…)コミュニケーションが成立するのは、大地、海洋、大空の脈動が、私たちの体内で捉えられ、凝縮され、広げられ、つぎに私たちの体内から解放され、そのこだまが風と海とともに戻ってくるのを耳にするときなのである。
→見知らぬ誰かが目の前にいて、たとえ何も共有していなくても、顔を背けられないほどの確かなる共鳴を感じることがある。それに素直に反応することで、「服従としての思考」を超えた、普遍的で真にオーガニックなコミュニケーションに、到達できるのだろう。
2006年07月06日
フラット化する世界とイマジネーション - トーマス・フリードマン
人間のイマジネーションが大切ではなかった時代など、これまで一度もなかった。しかし、本書を書いていくうちに、いまほどイマジネーションが大切な時代である時代も一度もなかったとわかった。なぜなら、フラットな世界では、共同作業のさまざまなツールが、誰にでも手に入るコモディティになっているからだ。自分のコンテンツを創れる力を、多くの人々が持っている。ただ、けっしてコモディティ化されないものが、たった一つある。イマジネーション - どういうコンテンツを創ろうかと想像することだ。
→誰でも生産者になれるアップローディング、グローバルなサプライチェーン、特化した事業へのインソーシング、そして個人が主体的に情報にアクセスできるインフォーミング。見えるところ、見えないところで世界はますますフラットになる今、まだ見ぬ世界を描くためには、
仮設を掛け合わせて見定めていく、バランスの取れた想像力がカギとなるのだろう。
2006年07月04日
常識は反発しなければならない - ローレンス・レッシグ
単純なアイデアがわれわれの目をくらませ、そしてその暗闇の中で、見ればほとんど誰でも却下するようなことがいろいろ起きている。(…)盲目さが常識となる。そして文化を育成する権利を取り戻そうとする人々にとっての課題は、この新しい常識にどうやって目を開かせるか、ということだ。(…)常識は反発しなければならない。常識は文化を自由にするべく行動しなくてはならない。しかもこの可能性が実現されるためには、今すぐにでも。
→
ブルース・マウがデザインの不可視性に言及するとき、MASSIVE CHANGEにも登場するレッシグは、周到に忍びこんだ法、特に著作権をめぐる視点から「自由な」文化を投企する。文化をフリーに交換する新しい枠組みに向けて、いま常識の大規模な整理が問われているのだろう。
2006年05月31日
MASSIVE CHANGE - ブルース・マウ
われわれの世界は今、革新そのものによってもたらされた、いくつもの根深い難題に直面している。楽観主義は時代の雰囲気に逆行するものではあるが、これらの大きな難題の周辺、また世界の周辺には、途方もなく新しい力の数々が列を揃えて控えているのもまた事実なのだ。もし文化テクノロジーの周縁で進行しているあらゆる物質をつなぎ合わせることができるならば、まったく想像だにできなかったような未来像を描くことが出来るだろう。MASSIVE CHANGEとは、この未来地図を描くものである。
「デザイン・レジスタンスのためのブックガイド」InterCommunication No.57、p24、NTT出版
→<帝国>的なシステムにすら寄与する「不可視のデザイン」という戦略。そんな今だからこそ、デザインをする主体は裂け目を見つけることができる。現状批判も大切ですが、ただペシミズムにとどまるのではなく、着実でワクワクするな事例を見ながら、ポジティブな未来地図を描いていたいです。
2006年05月23日
目的がはっきりすれば禁欲するまでもない - スピノザ
自分のコナトゥス(注:自己保存の努力)を神の無限の自己肯定の一部として身一つに感じられるようになったら、それは最高の「魂の平安」、安心の極地であろう。それが求めるべき最高の幸福、至福、自由である、とスピノザは言う。(…)「よいもの」を求める欲望は、こんなふうに求めるべきものの認識がしっかりすればするほど強度を増し、コンスタントになる。「目的とは衝動のことである」というのを思い出そう。目的がはっきりすれば禁欲するまでもない。
→「最高の喜び」の可能性を本気になって考えたスピノザ。「自分で最も大事で最も欲することのみをよしとし、あれこれ非難する前に直接よいことに赴く」という自己肯定と努力の視点で「欲望」を捉えなおすとき、目的と出会うための知性の本質として、「欲望」の意味がラディカルに変わっていくのだろう。
2006年04月30日
「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい - マルコム・グラッドウェル
ちょっと立ち止まって第1感というものを本気で考え直してみよう。(…)ささやかな変化かもしれない。しかし、小さな変化が重なれば、きっと世界は変わる。きっと今までよりもすてきな世界になる。綿密で時間のかかる理性的な分析と同じくらいに、瞬間のひらめきには大きな意味がある。このことを認めてこそ、私たちは自分自身を、そして自分の行動をよりよく理解できる。
『
第1感』マルコム・グラッドウェル、p22、光文社
→なんとなくの瞬間的で感覚的な判断に、今までの経験やまだ知らない志向性が圧縮されている。そんな「
適応性無意識」に自覚的であることが、知識社会/情報過多の時代で生き抜くための、新たに必要なリテラシーなのだろう。
2006年02月20日
あたりまえのことに驚ける時代 - 竹村真一
現代は“あたりまえのことに驚ける時代”だと思います。我々の細胞は毎日3,000億も入れ替わり、分子レベルでは決して昨日の私ではない。(…)そんな魔法をあたりまえに行っているのが生命であり、それにあらためて「驚く」だけの知性の解像度を得たのが現代の人類です。「神」という言葉を必要とせずに、そうした次元を日常のなかで生きる可能性。ですから、ネガティブに厭世的に構えている時間がもったいない。
→あたりまえのことに驚くときの解像度は、クリシェやステレオタイプを容易に乗り越え、本質を直感的に捉えるために作用する。その透明なまなざしが心動く感動を生み出し、ディメンション・シフトのポジティブな可能性を揚々と切り開くのだろう。
2006年02月06日
創発民主制 - 伊藤穰一
一人ひとりの市民に全体を理解するよう要求しなくても、必要に応じて市民たちが自己組織的に複雑な政治問題を審議して取り組むことで、民主制の質を高める方式がありうる。それこそが創発の本質だ。(…)民主制に生きる市民たちが自己組織化と創発的理解を許容する形で参加する仕組みを、情報技術が提供できるならば、創発民主制の一形態は今日の代表民主制の政府が直面する複雑な諸問題や規模的制約のかかった諸問題に対処できるようになるだろう。
→インターネットという新メディアの最大のインパクトが情報の主権を転化させたとき、ネグリのいう絶対的民主主義の地平は、真に創発するためのWEB2.0の上に開かれている。
2006年01月27日
大きな変動は微視的な漏出から生じる - ジル・ドゥルーズ
巨視的には階級間の構造的矛盾によって規定される社会は、微視的には分子状の逃走線によって規定される。(…)社会全体をつくりかえるほどの大きな変動は、つねに微視的な変化、知覚しがたいほど些細な変化から生じるのだ(…)。これまでの状態からのちょっとしたずれが漏出の力であり、しかるべき条件を与えてやれば、その力は圧倒的規模におよぶこともある。その意味で社会とは、いつも何かが流れ、あるいは漏出してゆく様態それ自体である。
→大きな変動のために知覚しがたいほどの些細な変化に耳をすませること。そんな中にあって自分自身も何かを漏出しているというリアリティを、主体的に感じることが大切なのだろう。
2006年01月11日
有難いということ - 鈴木大拙
自分が、その中に自分より以上のものを感ずると、自分というものがなくなる、そのなくなったところから、自分というものがある、ということになる、そこに有難い気分が湧くのである。(…)自分というものは感じられない、その時にかえって、自分が有難いということが本当に感じられるのである。これが神秘ではあるまいか。
→自分がリセットされてなくなるとき、有難い気持ちが生まれてくる。なくなったところにゆとりも出る。能動的で生き生きとあるために、ものごとを肯定し直観的に感受すること。そうして謙遜/忍辱という、晴れ晴れとした受動性が生まれてくるのだろう。
2006年01月06日
創造とは傷ついた心の再編成である - 茂木健一郎
強烈な印象を残す体験を受けての再編成は、意識のコントロールできるプロセスとして起こるわけではない。だからこそ、その再編成の結果生じたものに、自分でも驚かされることがある。そのような再編成の結果新しいものが生まれるプロセスを、創造という。素晴らしい経験をすると、自らもそのような何かを生み出したくなる。適当な形で心が(脳が)傷つけられることで、その治療の過程としての創造のプロセスが始まる。
→創造のために、一度心は傷つかなくてはならない。自分が参ってしまうほどの
素晴らしい作品にふれることも創造ならば、むしろ凹みを歓迎しよう。創造のために、いつもフレッシュであるために。
2006年01月05日
カミと出会う場所 - 岩田慶治
カミは一つ、しかもカミは個々の形を離れない。この矛盾はわれわれの日常的な空間の内部では解消しない。しかし、それが自然の割れ目を凝視するときに、文化のなかにぽっかりと開いた余白、物と物との間、それらの空間に入り込む、おのれを捨てて歩みいったときに、自然に解消される。(…)そこにカミが出没し、そこでカミに出会うのである。『カミの人類学 - 不思議の場所をめぐって』岩田慶治、p267、講談社文庫
→この本の冒頭、「根源的な創造の場」として「不思議の場所」があるとき、万物照応として
肯定的に、一が多であり多が一であるような「カミと出会う場所」を感じることで、生きることが生き生きと詩的になるのだろう。
2005年12月16日
名文は精神の充実を送り届ける - 丸谷才一
名文はわれわれに対し、その文章の筆者の、そのときにおける精神の充実を送り届ける。それは気魄であり、緊張であり、風格であり、豊かさである。われわれはそれに包まれながら、それを受取り、それを自分のものとする。われわれはおのづから彼の精神の充実を感じ取って、筆者が文章を書くことを信じている信じ方に感銘を受け、やがて自分もまた文章を書くことの意義と有用性を信じるのだ。これこそは名文の最大の功徳にほかならない。
→ステキな文章をつくり出すには、言葉を選びとる自身の精神の充実がなくてはならない。そのためには、よく推敲された結実としての文章を目の前にして、著者の時々のテンションを感じとる気構えが大切なのだろう。
2005年12月13日
パブリック・スペース - 岡崎乾二郎
自己の外部から訪れるかのような涙をそのまま受け入れることができるのなら、他者の涙をも同じように自分のものとして受け入れることができるはずである。涙も(笑いも)、究極的には、いかなる主体にも属さず、回収することは出来ない。ゆえにそれは誰のものでもありうる。それは決まった場所を持たず、主体を含めた、あらゆるテリトリーから流出し、越境し伝染してゆく。(…)もし涙を流すように生み出された場所があるのなら(そこはつねに管理を超えた、過ち、悲劇としての場所である)、そこがパブリックな場所である。
→伊勢神宮を謳った西行の一句から紐解くパブリックスペース(と芸術)。あらゆるテリトリーを越境するノマド的な共時性が前提となったときに、誰のものでもない感情を共有するための場所こそ、真に<共>的なスペースなのだろう。
「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
2005年12月05日
人間の欲望は、他者の欲望である - ラカン
言語という他者と人間主体との間の最も中心的な関係は、人間が自己自身を示す言葉(シニフィアン)を持っていないということの中にある。この欠如に直面して、人間は自分自身を、言語という他者にとっての欲望の対象として経験することになった。この経験が人間にとって真に現実的と言えるものである。(…)人間が言語を通じて世界を経験し、その経験が言語の空中楼閣でなく現実であるための基盤は、認識ではなく欲望、それも他者の欲望である。
→自分が他者に語られているときに自分の居場所が生まれ、他者を見ながら自己を相対化することで、社会的な私ができあがっていく。「話す存在としての人間の辛さ」を認識してはじめて、「他者の欲望」が新鮮な気づきとなってふつふつと浮かび上がるのだろう。
2005年11月29日
アースダイバー - 中沢新一
ぐにゅぐにゅと不定形で、スマートな思考をする部分とぼんやりとした夢を見続けてる部分とが、ひとつに混ざり合って、人間の心をつくっている。泥みたいな材料でできた心を『無意識』と呼ぶことにすると、この『無意識』を歪めたり、抑圧したりするのではないやり方で、人の生きる社会もつくられたほうがいいのではないか。(…)なんだか得体の知れないところを持っている私たちの社会は、まぎれもなくアースダイバー型の特徴を持っている。
→「人間の心」という陸地が無意識を抑圧して沈みかけている今、もう一度泥くさいところから心をこねなおすというアースダイバー的パースペクティブ。それは人間らしく心地よい余地を取り戻すための、古くて新しいコミュニケーションなのだろう。
2005年10月18日
目を閉じるということ - 杉浦康平
目を閉じてみる。そうすると、からだの中の闇の広がりは光に満ちた外界ではない、自分一個の内世界なんだ。皮膚一枚で閉じられた自分だけの闇の世界のなかにしばらく身をおいていくと、この闇の世界が無限に拡張され、広がりはじめるという感覚を持つ。(…)人間ができる最も簡単ですばらしいこと。それは、目をつぶり、自らの内部の闇に意識をひそめるということではないか。
→自分一個の内世界に積み重ねられたもの。スティーブ・ジョブスが「
内なる声は知っている」というとき、自らの目をつぶり、光の下で見えるものだけじゃなく、闇の中で確かに感じるその中に、知りたい「それ」は
隠されることなくありありと、あり続けるのだろう。
2005年10月17日
裂け目を見つける目を訓練する - 後藤繁雄
無垢な眼差しで、これを初めて見たんだっていうような感動があるかっていうのは、もうフィクションなわけですね。ないんだったら、それを作ればいいって思うわけです。フィクションとして。でも、ときどき奇跡みたいな時もある。(…)少しほころびはある。むしろ、そういう次元を超えたり、裂け目を見つけられるような目の訓練がないと、ものを作る力にならない。
→現代の<ルール>に合わせてフィクションをつくるのでもいいけど、その積み重ねで確実に前例のないものにぶち当たった奇跡的瞬間に、物怖じせずに突き進めることこそイノベーションだ。そのために、「あっ、今キセキかも」と感じるひたむきな感性が、問われてくるのだろう。
2005年09月15日
創造的主体としてのマルチチュード - アントニオ・ネグリ
マルチチュードの創造的な運動によって、<帝国>の構成に存在の新たな意味が押しつけられる。というよりも、じつのところ存在の新たな意味は、オルタナティブなパラダイムとしてこのプロセスのうちに絶えず現前しつづけているのである。(…)存在の新たな意味は、支配的な権力を抽象的で空虚な統一へと推し進める、絶対的な肯定的力として作用するのだ。『
<帝国>』アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート、p91、以文社
→大欲、大我と
すべてを肯定する密教の立場とも何となくリンクする、世界を肯定する力を持つ創造的主体としての「マルチチュード」。曖昧だ何だといろいろ突っ込まれてますが、
web2.0の文脈で少しずつリアルになる「
クリエイティブクラス」の存在こそ、その担い手なのかもしれません。
2005年09月08日
世界は変えられることを望んでいる - ジョルジュ・バタイユ
到る所で、現代世界は急速な変貌を招いている。まこと地球がこれほど様々な目まぐるしい動きによってかき立てられたことははじめてである。もちろん、重大な急激な破局を地平がこれほど重く孕んでいるように見えたこともはじめてである。(…)だが、これ以上恐怖を表明せずこの世界に立ち帰って、その様々な可能性を認知すべき時期である。思想の物質的条件を率直に認める人間にとっては何ひとつ閉ざされていない。(…)到る所で、あらゆる仕方で、動きつつある世界は変えられることを望んでいるからである。
→「世界は変えられることを望んでいる」というバランス感覚は、翻って世界を構成する僕たちひとりひとりに関わってくる。「恐怖を表明してばかりいるな」という1947年のバタイユの「強烈な不意打ち」は、2005年を迎えた僕たちに何を投げかける?
2005年09月05日
内なる声は知っている - スティーブ・ジョブス
君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。(…)その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。
→内なる声に耳を傾けて、自分の無限の可能性から知らない自分を引き出してゆくことが成長なのだろう。「Stay hungry, stay foolish.」であるために、
自分の感受性くらい自分で守れ、ばかものよ。
2005年08月30日
分配、複数、コラボレーション - ブルース・マウ
50年前とは劇的に違う世界が今、僕らの前にある。僕らは、このとんでもない変化に対して責任を負わなければならない。気の遠くなるような話だけど実際に起こっていることなんだ。(…)より進んだデザインは、3つの重要な考え方が基本になる。分配、複数、コラボレーション。単独で、小さなフレームの中で活動することは、デザインにはもう許されないんだよ。Esquire JUL 2005「闘うグラフィックデザイン」、p53
→「
もろもろの分野を貫いた」コラボレーションによるデザイン。未来へのデザイナーの果たすべきコミットは、小さなフレームを飛び越えることから始まるのだろう。
2005年08月26日
普遍経済学 - ジョルジュ・バタイユ
産業の延びなやみを合理的に解消するかたちで、或いはどうにも蓄積しようのないエネルギーを蕩尽する、非生産的事業のかたちで、過剰生産を転用することが必要である。(…)ここではただ、成長の拡大は経済諸原則の転覆を-それらを基礎づける倫理/モラルの転覆を要求するとだけ明記しておこう。局限経済の視野から普遍経済のそれへ移行することは、まさしくコペルニクス的転回を実現するに等しい。
→50年のときを経て、
見田宗介氏、
中沢新一氏らが21世紀のロジックとして期待する、供犠でも戦争でもない新しい時代のための蕩尽とは。この“常識”においては忌々しき「呪われた部分」としての非生産的活動は、普遍経済において何よりも人間らしく輝き出すはずだ。それがもしかしたら、21世紀のアートの役割なのかもしれない。
2005年08月12日
多主語の世界 - 杉浦康平
すべてのものに主語があって、森羅万象がむせかえる。むんむんしている状態ですね。一つのものが他のものと重なり合い、無数に重層しあって、互いに網の目のようにリンクしている。その一つ一つに主語があり、輪廻転生があって他のものとうまくやっていける。精神をわかちあうという感覚です。
→欧米の人には全然通じないというアジア的多主語の感性。500年来支配したオレ、オレ主張型西洋思想でひとつの臨界に達したとき、バランスをとるための東洋思想の根底は、森羅万象がむせかえる生態系への自然とエコロジカルな感覚なのかもしれません。その後に続く文章、「一たす一が二にならなくて、五になったりゼロになったりする。」たしてゼロになるって、いいなぁ。
2005年08月03日
おのれの場所を失わずに他人に譲る - 岡倉天心
おのれの場所を失わずに他人に譲ることが、現世の劇の成功の秘訣である。われわれは自分の役を過不足なく務めるためには芝居全体を知っていなければならない。個人を知って全体を見失うことがあってはならない。(…)おのれを空しくして他人を自由に立ち入らせることのできる者は、どんな事態をも自由にすることができるだろう。
→美を発見するために美を隠し、「自分を完膚なきまでに笑う高尚な奥義」としての茶道。それは、自分の役割を全うするために全体を知ろうとする東洋の理想であり、21世紀にいよいよ近代合理主義を脱するための、崇高なコンセプトなのだろう。
2005年08月02日
ありのままの自分でいるために - ジャン=ボードリヤール
人びとはもはや他の誰かに代表されたくないばかりでなく、『解放される』ことさえもはや望んではいない。いったい何から、何に関して、解放されるのか。自由を何と交換するのか。(…)人びとは、今日自分の欲することを望むとき、解放されている必要はない。自分がありのままで存在するために、私はこれだけの人間なのだと自覚する必要さえないのだ。『
不可能な交換』ジャン=ボードリヤール、p155、紀伊国屋書店
→世紀が変わってラディカルに転回する「自由」の意味。自分が誰かと違うことが当たり前なのだから、むしろ誰かと同じものを欲していることを尊ぶべきなのかも。「個性」の呪縛を超え、
晴れてありのままの自分へ。
2005年07月21日
歓喜と欲望は必要よりも本原的である -見田宗介
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることへの基底倍音のごとき喜びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。
→物質的必要に先立つ生への歓び。そんな「単純なエクスタシー」を感じる人間らしさこそ、「世界を変える」ための、オプティミスティックなよりどころなのかも。
2005年06月23日
道有る者は処らず - 老子
みずから是しいとするものは、他人よりきわだってみえることはない。自分でほめるものは、何も成功しない。した仕事を誇りにするものは、長つづきしない。それらのものは『道』の立場からいうと、無用の付着物とよばれる。それらを生物はおそらく嫌い、斥けるだろう。だから、『道』を有する人は、そんなところに長居はしないのだ。『
老子
』第二十四章、小川環樹訳注、p62、中公文庫
→再び老子より。みずからの前に常に道がひらかれるようにどこかに長居せず、颯爽と世をわたってゆく。その自然な道に居場所を見つけることが、幸せなのかもしれない。いつか定住する場所が見つかるその日まで。
2005年06月20日
有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり - 老子
三十本の輻が、車輪の中心に集まる。その何もない空間に車輪の有用性がある。粘土をこねて、容器をつくる。その何もない空間に容器の有用性がある。戸口や窓の穴をあけて、家をつくる。その何もない空間に家の有用性がある。こうして、何かがあることからもちろん利益を受ける。だか実は、何もないことの有用性が根本には在るのである。『
老子
』第十一章、小川環樹訳注、p30、中公文庫
→空虚にこそ価値が宿る。老子を師と仰いだ岡倉天心の「茶」の心から、フランク・ロイド・ライトに衝撃せしめた空虚の系譜。実体と有用性を切り離した、行為を誘発する空間としての空虚。青山ブックセンターの店員が「老子はデザインだよ」と言った理由が少しわかった気がする。
2005年06月07日
潜在する『出来映え』をつくる - 深澤直人
詰める作業、エクスキューション(出来映え)が大変だし、大切なんです。エクスキューションというのは、みんなが共有するゴールに到達するプロセスのことですが、それはデザイナーだけじゃなくて、みんなで納得するものですから。だから、僕は自分の個性ではなく、みんなの中に潜在する『出来映え』を必死になって作ってるんです。
広告批評 2005/JUN「深澤直人の仕事」、p106
→誰もが納得する「出来映え」に、「ふつう」という最適解が潜む。それには無理がなく、そつがないのだろう。
2005年06月06日
誰のメッセージを作るのを助けるのか - ルシエンヌ・ロバーツ
ちょっと前まで、NPOの仕事はクリティカルな人がやってたけど、今はマクドナルドのPRをしている人がやったりね。自分は何をやるか、一番効果があるやり方を選ぶ時代というわけ。私にとって最も重要だと思われるのは、誰がメッセージを受け取るのか。誰のメッセージを作るのを助けるのかということ。Esquire 2005/JUL「闘うグラフィックデザイン」、p84
→
FIRST THINGS FIRST を仕掛人ルシエンヌ・ロバーツの言葉から。「ロンドンのインディペンデントな雰囲気はソーシャルな意識の蓄積による」という文脈で。
自分がクリエイティビティをもってコミットすべき社会問題は、その人自身のアンテナに強く反応したものだからこそ、豊かなメッセージが生まれてくるはず。「自分のために」が、
「社会のために」ということが理想的なのだろう。
2005年05月27日
経験として刻むだけの体験を日常化する - 福井信蔵
デザイナーは『そこではルールがまったく違うかもしれない』という自己想定問答を日常化すべきである。(…)『ちょっと待てよ。それって悪くないぜ。』と、ミクロにもマクロにも、縦横無尽に多様な状況に意識を馳せること。それには、食べる。聞く。見る。遊ぶ。笑う。泣く。描く。無駄使い。贅沢。旅。読書。鑑賞。そして、洞察。とにかく経験として刻むだけの体験を同時に日常化することだ。NIKKEI DESIGN、2005/6、p133
→毎日の何気ない体験が、思索の糧となることを自覚し、デザイナーに限らず、あらゆる仕事はlクリエイティブなものなら、何事も(寝るときさえも!)仕事だと思えて尊いとき、経験として刻むだけの体験が日常化された、魂の濃度が濃い、豊かな人生となるだろう。
2005年04月28日
不生不滅不常不断不一不異不去不来 - 龍樹
この世においては、何ものも生ずることなく、何ものも滅することなく、何ものも常住することなく、何ものも断滅することなく、何ものも同一であることなく、何ものも別異であることなく、何ものも去ることなく、何ものも来ることがないという、即ち、そのような戯論の消滅という、めでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちで最も勝れた人として、私は敬礼する。
→龍樹のブッダへの帰依の宣言から。戯論とは、形而上学的な議論であり、それを否定し、一切は意味的につながっている縁起の世界を、あるがまま受け止めようという龍樹。最初は「?」なんだけど、これが理解できそうなときの、「捉われのない視点」は甚だ気持ちよいもの。世界はいかに縁起に満ちていることか!
2005年04月21日
たどり着くべき地点にはすでにいなければならない - ヴィトゲンシュタイン
私がたどり着きたいと思っている場所が、ハシゴを使わなければ上れないような場所なら、私はたどり着くのをあきらめるだろう。実際たどり着くべき地点には、すでにいなければならないのだから。ハシゴを使わなければ手に入らないものに、私は興味がない。
→「たどり着きたいと思っている場所」と「いなければならない場所」が同じとこにあることが、無理なくそれこそ自分らしいスタイルを持つということだろう。己を省み時に潔い決断を。
2005年04月20日
事物のラディカル性 - ジャン・ボードリヤール
ラディカルであることの特性は、何ものかが『現実的』であるかもしれないとか、意味やコンテキストや主体や客体などをもつ何かとみなせるかもしれないなどという考え方に対立している。事物とは、もはやそのようなものではないし、いちばん単純だと思われる事物でさえ、つねに謎めいた側面を持っているが、それが事物のラディカル性というものなのだ。
→急進的/根源的、という両面の意味をもつ「ラディカル」をめぐる、2人のジャンの対談から。ソーシャルネットワーキングなコンテキストの充実をむかえる一方で、改めて意味やコンテキストをこえたところの謎めいた美学が問われてる気がする。ラディカルであるために、キーワードは「
セレンディピティ」。
2005年03月10日
常識と非常識の境目 - 藤幡正樹
『美しさ』という価値判断は、常識や文化ととても密接なものだけれど、『面白さ』というのは常識ではなく、常識と非常識の境目で常識がぐっと広がる瞬間を指しているのではないか。非常識だとおもっていた事柄が、了解事項の中に入るその瞬間こそが、『面白い』と思うときなのだと思います。
→佐藤雅彦氏との対談の中で。まだ見ぬ面白いものに出会うことは、自分の中の常識が拡充していくからなのだろう。経験的な「リアリティ」は、リテラシーであり、懐の深さでもある。
2005年03月04日
野生のナヴィゲーション
ルートを『辿る』ことと『探る』ことの2つが一体となってその時々の状況に応じて調整する能力こそが、野生のナヴィゲーションの根幹である。(…)多様な環境において異なる見方や理解の仕方から、私たちが見えないもの、聞こえないもの、気づかないものが浮き彫りになってくる。その差の大きさを知ることによって、多様な環境に生きるために保ち続けてきた人間の能力の高さに気づくことができるであろう。
→海洋上で見えない島をみたてるミクロネシアの人々、経験の伝承によって自然空間を既知化する、イヌイトやサバンナの人々。野生のナヴィゲーションはプリミティブではなく豊かに合理的であり、さまざまな空間認知の分析に応用できるはず。
2005年03月03日
どの実体も一つの宇宙の表現である - ライプニッツ
魂には魂自身の法則がある。体にも、体自身の法則がある。それでいて両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだに存在する予定調和のためである。そしてその調和が可能なのは、どの実体も、みなおなじ宇宙の表現にほかならないからである。『ライプニッツ - モナトロジー、形而上学序説』、p30、中公クラシックス
→小さな一部分でも豊かに宇宙を表現している自信。「あまりに微細で目に見えないもの」に宿る精神的な価値を判別できるリテラシーが問われている。
2005年03月01日
Another World is Possible
開かれた空間のなかで、われわれが『もう一つの世界』を定義するために必要な言葉たちがあらわれるだろう。人類が真に人間的で幸福な生活を生きるために与えられるオルタナティブがますます切り縮められている世界の中では、開放性は、戦略であるとともに目標でもある。
→「もうひとつの世界は可能だ!」と宣する世界社会フォーラム(World Social Forum)の論文集の序文から。『もうひとつ世界』の定義をめぐるプロセスは、非常に生き生きとしている。それほどオルタナティブとは真に豊かな選択肢なのだろう。
2005年02月09日
《良い》を定義するのは、それが占める位置である - ロラン・バルト
重要なのは、良い文学と悪い文学という二つの文学のあいだに、社会がみずからある構造的関係を設けているということである。《良い》を定義するのは、まずその倫理的な内容である、ということではなく